『true tears』はなぜ一部で人気があるのか?という疑問に繋がる感想

サンクリ46で『true tears』のコピー誌を出した。
以下はコピー誌に載せた感想文。

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true tears』感想文

(参考にしたもの)
true tears memories』(特に藤津亮太氏の解説)
『アニメの門』藤津亮太ニュータイプ誌連載)


『ture tears』で引っかかっている場面がありました。
第13話で比呂美が「石動さんに早く話を付けてきて」と眞一朗にけしかけるところです。
それに応える眞一朗はまるで母親の言うことを素直に聞く子供のよう。
思わずビデオの再生を止めていました。僕は何でここが気になるのだろう?


僕がttを1度見てしっかり覚えていたのはここぐらいでした。で、まず第13話を見返して見ることにします。


続きのシーン。母親の「どこかに出かけるの?」という問いに対して「ちょっと」と眞一朗。
返事をしているところから親子関係が改善していることが見て取れます。
そして眞一朗が比呂美に送られて家を出ます。
ここで視点が母親に変わる。眞一朗が急に戻ってきて比呂美に言うセリフが「今日の夕飯何?」。
これには比呂美も驚いて「し、シチュー」と返すのが精一杯。眞一朗はそれに「やったー」と喜んで出ていく。
これを母親に全部聞かれているという演出。


母親には素っ気ないが、母親に似た女には子供のようになる。
母親はまだ若くて美人、おまけに家庭内で女を出している。
分かり易すぎる種明かしです。やたらと母親をクローズアップしていたのも納得がいきます。
つまり眞一朗はマザコン野郎だと教えてくれているわけです。


主人公は情けない人間だと自覚しています。周りから与えられた状況に流されて自分の意志がない。
それが変わるのは第12話、押し入れの中で眞一郎が自分の意志で生まれるというシーンにおいてです。
そこには両親が介在しない。
踊りが嫌なのは父親と比べられたくないということ。つまり母親の男と比べられたくないということ。
絵本作家になりたいというのは憎い男に喰わせてもらっている現実への拒絶でしかありません。
父親が絵本を書いていることに理解を示していますが、いっそ怒られた方がマシなわけです。それでいて母親には反対されるという。
このシーンでは比呂美のことも言及しています。母親に似た女の子が自分のことを好きらしい。
けれど、第10話で比呂美から思い出を頼ってこの家に来たと聞かされています。
比呂美の両親が死ぬと言う状況と子供の頃の自分という今の自分と全く関係無い人間が相手の心を動かしているわけです。
それでは自分が惨めになるだけです。


そういう諸々を全部チャラにする。母親からではなく自分の意志で生まれるというのは母離れをするということです。
けれど、母離れしたといってもマザコンであることは変わりません。母親が音に気づいて少し目を開けるのはそういうことだと思います。
第13話で眞一郎から父親に問いかけるシーン。自分から父親に話しかけるのは劇中では初めてです。
そこで返ってきた父親の言葉を別の場所で使うという、比呂美と同じような構造をとっています。
今までの眞一郎はもういないわけです。


父親の言葉「心が震えたときに人は泣く」もヒントです。心が震えるのはどんなときか。
父親と話した直後に眞一郎は乃絵のために踊った祭りのこと思い出します。人のことを強く思ったときに心が震える、涙も流す。


では、涙を流せない乃絵という少女は何なのか。
心が震えないというのは人のことを強く思わないから。強く思わないのは深く関わろうとしていないから。
それは何故か。祖母の死がとても悲しかったから。大切な人ほど失ったときの悲しみは深い。だったら、最初から付き合わなければいい。
こういうことでしょう。変なところがあるのは人に影響を受けなかったので平均値から離れていると考えられます。
それでも守ってくれる兄がいるのでなんとかやっていける。状況に甘んじているのは眞一郎と同じです。
乃絵がプチ家出(?)から帰って来ると純がエプロン姿で汁物を作っているというのは純が母の役目を担っているということ。
つまりは乃絵も母離れが必要ということです。そこで兄に「(今まで)ありがとう」と感謝を告げます。


しかし、それでは問題は解決とはなりません。
乃絵は人とのつきあいが希薄なので人の気持ちが分からない。これは一朝一夕でどうなるものではありません。
一番近くにいる兄の気持ちにも気づいていなかったと知って混乱します。誰も自分を分かってくれないのではないか。
けれど、眞一郎は分かってくれる。もしかしたら、他にも分かってくれる人がいるかもしれないと背中を押されるわけです。
眞一郎のそれと同じように完全に自分一人の問題ですから他人を頼るわけにもいかない。
乃絵は覚悟が出来たことを伝え、去っていくのです。


2人の状況は似ていて、同じ主人公と考えられます。
その主人公が対人恐怖症でマザコンなわけです。程度の差はあれ僕たちにも当てはまるでしょう。
つまり、『true tears』は僕らの物語であり、それ故に生々しいのだと思います。


ザコンは『true tears』では「どうにもならないもの」の一例です。
劇中の主な登場人物は皆、どうにもならない問題を抱えています。
愛子は幼なじみに想いが通じない。三代吉の彼女は他の男が好き。純(乃絵兄)は実妹が好き。眞ママは比呂美が嫌い(そんな自分も嫌い)。
皆、劇中でその問題に悩み、覚悟を決めていきます。


少しわかりにくいのは比呂美です。
話は戻って第13話。帰りを待つ比呂美の元に眞ママが鰤大根を持ってやって来るシーン。
洋食を好んで作る比呂美に鰤大根というのは「今の若い子」と「伝統的なもの」の対比を狙ったものでしょう。
伝統的なものとは母親が担っていた役割を嫁に引き継がせるということ。つまり、嫁になるというのは男の母になるようなものということです。
比呂美は鰤大根を食べ、嫁になることを覚悟し受け入れます。
股割りが出来たというのは覚悟したことで新しい世界が開けるという「予感」のようなものです。
比呂美は居場所を求めています。雪が降っていない町とは私がいて良いところという意味です。そこに行きたくて仕方がない。
事故後に眞一郎に抱きしめられるシーンで比呂美は泣きます。この腕の中が私の居場所だと気づくのです。
だから「今の若い子」なのに高校1年生で覚悟を決めるのも本人にとってはオーケーなわけです。


覚悟に含まれるのでしょうが、母親になるということは乃絵のような眞一郎の同志となれないということです。これを認めなければならない。
「待つ」ということは同志になることを放棄して母親に息子の帰りをただ待つ、ということではないでしょうか。

その後、比呂美は思い出の竹藪に移動します。何も言っていないのに見つけられ、比呂美は驚きます。
ここは祭の夜と似たようなシチュエーションを取っています。
そこには今の眞一郎とは関係のない幼い頃の自分が存在しています。そこで生まれ変わった眞一郎が比呂美に受け入れられる。
与えられていた環境を自ら上書きするわけです。
最後に雪が降ってきます。比呂美の異母兄弟であると知らされた雪の記憶が幸せな瞬間で上書きされているのです。
両者にとって最高のハッピーエンドです。


覚悟について印象的だったのは母親と比呂美の関係においてです。
理屈で言ったら母親があそこまで受け入れるというのはどうやったってあり得ません。段階を飛び越しているように見えます。
あれは覚悟を決めたと言うことです。
覚悟を決めると理屈では説明できない程しっかり向き合ったり、上手くいったりすることがあります。
説明できないけれど、それで説明が付いてしまうのが覚悟というものなのです。
そう考えると比呂美の股割りのシーンでは今まで無理だったことがあっけないほど簡単に出来るようになっています。
覚悟とはそういうものだ、と言う意味も込められているのでしょう。
眞一郎が祭りのときに三代吉に指摘される場面がありますが、あのとぼけた感じは細かいことが気にならなくなった、ということなのかもしれません。
true tears』は理屈っぽいアニメです。それ故にあの覚悟を決めるということが際だっているように感じます。


ここまで書いてきて気づいたのは作り手が乃絵の覚悟と同じものを持っているということです。
伝えたいし、分かって欲しい。最後に経過は省かれますが(ドラマCDで補完)乃絵には友人が出来、眞一郎との思い出の残滓を見つけ涙を流します。
ここまでしっかり着いてきた視聴者には分かるのでしょう。やりたいことは伝わったよ、と。
true tears』は視聴者に期待する、共犯関係を築こうという何とも大胆なアニメです。
分かるということは快感ですから、熱狂的なファンが多くてもおかしくありません。
そしてそれ以外はなぜ人気なのか分からない。
僕はようやっと『true tears』ファン初級になれたのかもしれません。
見返せば気づかなかった発見があることを期待しつつBD-BOXを待つことにします。

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